/ Real life

晴れるまで姿を消す——自然、アンビエント、そして静寂

デジタルの加速に抗うように、自然の広大さと音楽はひとつの出口を開いてくれる。消えるのは逃げるためではなく、別のかたちでふたたび現れるためだ。

晴れるまで姿を消す——自然、アンビエント、そして静寂

I

何十億という人間と同じく、ぼくはせかせかしていて、そして疲れている。自分を電子みたいに思い描く。原子核のまわりをぐるぐる周回している電子。ボールやクラブや剣や火を操るジャグラー。隕石の雨が降り注いでいる太陽系。もしかしたらその隕石には生命のもとになる化学元素が乗っているのかもしれない。でもさ、この張りつめた感じ、たまったもんじゃないよ。

やたらと浅くて短い自分の呼吸を、ひとつのメッセージとして読む。「別の速度体制に移る時間だ」。そのためには穴蔵を抜け出して外に出なきゃならない。人間の気配の薄い場所、山や雪解けの川のような、ヒト科よりはるか昔からいる存在がはびこっている場所へ。デジタルじゃない情報の流れに注意を向けられる場所へ。視界が晴れるまで減速すること。

発信することが話すことと同義ではなく、注意を向けることが聞くことと同義ではない場所が必要だ。黙らされるのは抑圧になりうるけれど、黙っていたいと思うのはケアになりうるし、ときには自己防衛にさえなる。場所はもう決めてある。パタゴニアの台地とアンデス山脈をつなぐあたり、チュブ州コルコバードの近辺だ。

II

2026年2月6日。コルコバードに着く。二日間、ため息ばかりついて過ごす。しぼんでいくみたいに。深い、地殻変動みたいなため息。ため息をつくたびに、自分の身体の感覚が広がっていく。浅い呼吸は鼻でしていたけれど、この吐息は肺から出てくる。思いきり深く息を吸うと、肋骨が皮膚を内側から押すのを感じる。求めてもいなかった快感がやってくる。身体に何ができるのかぼくたちが知らないのは、ひとつには、未開拓の性感帯がどこにあるのかを知らないからだ。

コルコバードに着く。二日間、ため息ばかりついて過ごす。しぼんでいくみたいに。深い、地殻変動みたいなため息。ため息をつくたびに、自分の身体の感覚が広がっていく。

川を眺めてため息。小道を歩いてため息。山を眺めるためにマテを淹れてため息。一日じゅうそんな調子だ。外から見れば健康上の問題に見えるかもしれないが、内側から見ればそれは健康のしるしだ。

この健康は、一見シンプルだけれど社会的には難しい、ほとんど特権とも言えるひとつの身ぶりの上に築かれつつある。しばらくのあいだ姿を消すこと。移動の習慣を止め、なじみのものを未知のものと取り替え、イメージを持っていない場所へ行き、予想もつかない問題を解き、予想もつかない結論にたどり着く。一年じゅう考えていることを考えないこと、そして一年じゅう考えているやり方で考えないこと。スマホをあまり見ないこと。別の速度で書くこと。雪解け水に腰まで浸かって、足首を折らないように気をつけながら二時間かけて川を歩いて渡ること。鮭のさばき方を覚えること。食べられるキノコを見分けること。ふだん書かないようなことについて書くこと。人生で初めて馬を見たと感じるまで、一頭の馬を見つめ続けること。

III

2月9日。気分が目に見えて変わった。深く呼吸している。落ち着いている。やり残したことを片づけなきゃという気持ちが湧いてこない。未来のことやこれからやることを考えはするけれど、それは今すぐ果たせと迫ってくる義務や脅しや約束としては現れない。遊び場として現れる。アイデアや、プロジェクトや、この先何年かでやってみたいことと戯れる。思弁する。あるいは、好んでスタニスワフ・レムをもじって言うなら、「可能性を秤にかける」。物事の進み具合に、それがたどりうる漂流に付き添っていく。

消えることと、落ち着きと、未来化の関係について考える。「今を生きる」なんてのとはまるで違う。現在に閉じ込められている感じはなくて、むしろ現在と可能なものとの組み換えに巻き込まれている感じだ。生理学的な比喩を続けるなら、ぼくは酸素化を誘発している。

でも、横に向かっても、自分を取り巻くもののただなかでも考える。その訓練を自分に課す。手触り、匂い、音。木に触れる。鳥の飛ぶのを目で追う。マーラが不意に跳び出して、一目散に逃げていくのを見る。足もとで下草がきしむ音を聞く。前を歩くパスの鼻歌を聞く。周囲がぼくのほうへ迫ってくるのにまかせる。新しさとして、情動として、この惑星がどれだけ巨大かのしるしとして、そして見当もつかない、イメージすら持っていない無数の物事があることの証拠として。

IV

消えることについてよく考える。考えずにいられない。最小限の意味にまで切り詰めてみる。消える、つまり現れを失うこと。消えるためには、現れていなければならない。現れる前のものは消えてはいない。消えるとは、現れの、存在の破壊だ。姿を見せないこと。極端なかたちもある。死ぬこと、それはもう何に対しても誰に対しても姿を見せられなくなることだ。あるいは拉致されること、それは抜き取りという暴力を前提にしている(軍事独裁と採取主義との連続性を思わずにいられない)。対してぼくの消え方は局所的で、有限だ。現れることそのものを破壊するのではなく、ある現れ方を破壊する。別の特徴をもって現れたいのだ。そのために、新しい条件、新しい情動を探しに行く。

年を重ねるうちに気づいたのだが、消えたいとき、ぼくは広大な場所を探す。南の海、砂漠、プーナ、パタゴニア。都市だったことは一度もない(都市は加速したいときに探すものだ)。いつだって地質学的な巨人で、人のまばらな場所だ。ぼくの消え方は人間のまなざしを強く意識していて、その前に現れるのをやめようとする。でもだからといって、山や海が舞台や単なる証人に格下げされるわけではない。

ぼくの消え方は局所的で、有限だ。現れることそのものを破壊するのではなく、ある現れ方を破壊する。別の特徴をもって現れたいのだ。

チリのエスポロン湖で、ぼくはこう書いた。なぜぼくは巨大さに頼るのか? なぜ人間のものではない速度、ときにひどく遅く、ときにひどく速い速度をもつ巨人たちに近づき、入り込んでいきたいのか? 巨大な証人たちは、ぼくを軽くしてくれるスケールに置いてくれる。危機的な瞬間でさえも。何年か前、大事な決断をするためにアルゼンチンのアンデス地方に行った。決断するために山に分け入った。一日じゅう歩いて、山小屋で眠った。山を下りるとバスに乗って、ロス・アレルセス国立公園のフタラウフケン湖に面した小さな小屋で、一週間ひとりで過ごした。隠者モード。孤独と決断。内省が広がっていけるように、人間の少ない環境。ぼくにとって内省とはただ内側へ向かうことではなく、別の外側にいることでもあるからだ。

今年は大きな決断の重みではなく、終わりの見えない、不安をかき立てる一年の疲れを感じている。政府発のクソの津波が次から次へと押し寄せ、あの浅くて速い呼吸を磨き上げていった一年(自分の呼吸をチェックしてみてほしい。データがぎっしり詰まっているから)。そんな今年、広大さがぼくを抱きしめ、ぼくは抱きしめられるにまかせ、少しずつ自分のかたちを失っていく。

V

ぼくは高揚している。でもそれは雄弁さとは関係のない次元でだ。身体で表す高揚。何時間も休まず歩き続けることもできるし、同じくらいの時間じっとしていることもできる。この消え方は、せわしなく動くことでもじっとしていることでもなく、別の調で、別の音にチューニングして動くことだ。疲れの意味が変わる。不調というものの捉え方が変わる。そうでなければ説明がつかない。ブーツを突き抜けて足首と足の甲をめちゃくちゃにするひっつき虫だらけの足で十キロ近く歩けることも、頂上が洞窟の迷路みたいになっていて、ピューマがいるかもしれないと警告された高台をよじ登れることも、川の曲がり目をえらく長いあいだ眺めていられることも。

その横への動き(つまり、目の前で起きていることにもっと注意を向ける動き)の中で、ぼくは自分が広がっていく布地だと気づく。裂けていくことに苦しみはしない。むしろ逆だ。力が湧いてくる。自分の行為よりも、周囲と深く溶け合うようになる。自分のものではないものの中にいること。それがぼくの言う「消える」だ。

死にたくはない。でも死ぬのが怖いわけでもない。パスに言う。ここで死んでも、そんなに大したことじゃないかもね。

VI

もう今日が何日なのかわからないし、知る必要も感じない。腰を下ろして山を眺める。カベサ・デ・インディオ。標高1600メートルの美しい山だ。持ち主はアルゼンチンの大富豪たちだと聞いた。名前は教えてもらえなかった。言いたくなかったらしい。ただ、ゲートをいくつか通らなきゃいけないから、許可なしには行けないということだけ。信じられない。どこかのクソ野郎が山をひとつ買ったのだ。そこに住んでいるわけでもないし、たぶん一度も行ったことがない。何か採掘できる鉱物でもあるのかもしれない。どんな理屈も、ぼくにはくだらない戯言にしか聞こえない。資本主義の歴史は、これまで存在したなかでもとびきり馬鹿げた歴史のひとつだ。資本主義は不公正であるのと同じくらい馬鹿げている。その持ち主たちのことを考えると、憎しみと同じくらい憐れみが湧いてくる。山を眺めて、歩きたい人が自由に歩けないなんて信じられないと思う。パタゴニアでは柵で囲われた土地があまりに広大なので、ときにそれが存在しないかのような錯覚が生まれるけれど、それはスケールの問題にすぎない。私有財産とは、ぼくを横へと考えさせ、溶け出させ、混ざり合わせるあの力に対する限界なのだと思う。その動きを撥ねつける壁だ。資本主義とは、現れる可能性を制限する巨大な作戦であり、そしてまた、これは今になってわかった気がするのだが、消える可能性を制限する作戦でもある。階級闘争とは、いないことの条件と可能性をめぐる闘いでもある。そして資本の論理が、移動を強化するために監禁から管理へと、言い換えれば境界の管理から軌道の管理へと移行したとしても、その中心で脈打ち続けているのは、いることの様式といないことの様式の押しつけだ。価値化か、さもなくば死か。

VII

消えることの可能性に、ずっと関心があったわけじゃない。でも今は、留保つきではあれ、それを考慮に入れている。そしていろんな現象をしるしとして読む。こうしたことが、人生でいちばんアンビエントな音楽期と重なっているのが偶然であるはずがない。パンデミックの直前に始まって、まだ終わっていない時期だ。2020年の隔離生活のさなか、ぼくはこう結論づけた。自分がこれほどアンビエントを聴いているのは、それを一種の音響的な防疫線として体験しているからだ、と。心配ごとを和らげ、宙吊りの状態と折り合いをつけ、向き合うべきものに向き合うための余白をつくる方法。

最近はHiroshi Yoshimura、Satoshi Ashikawa、Iu Takahashi、Eric Olsen、Lumtz、Loscil、Laraaji、Federico Durand、neosika、Slow Attack Ensemble、そしてEno、Pauline Oliveros、Suzanne Ciani、Aphex Twin、William Basinskiといったジャンルの巨人たちをよく聴いている。ほかにも、プラットフォームにおすすめされて聴いてはいるけれど、誰なのかわざわざ確かめないものもある。アンビエントはとても豊かなジャンルで、楽器や音色のバリエーションに富み、音楽的なテクスチャーと色彩に満ちている。反復しかないように見えるところにさえ差異を生み出してみせる。いちばんわかりやすいのはドローンだ。

アンビエントはとても豊かなジャンルで、楽器や音色のバリエーションに富み、音楽的なテクスチャーと色彩に満ちている。

しかも、つくられた場所がそのまま美学的な刻印になる。日本のアンビエントはスウェーデンのアンビエントとは違うし、アルゼンチンのアンデス地方のアンビエントにはイギリス勢には見つからない色合いがある。こう考えてみよう。コルコバード川には、アマゾン川やドナウ川と同じように、唯一無二のせせらぎがある。サウンドアートやフィールドレコーディングと対話している以上、アンビエントはその名に恥じないジャンルだ。まさしく、環境的なのだ。周囲に耳を澄まし、それを再生産しようとしたり、そこから何かを生み出そうとしたりする。

要するにこういうことだ。パンデミックのとき、アンビエントを防疫線として体験していると書いたエッセイ があったとすれば、最近のぼくはそれを出口の音楽として聴いている。何からの出口? どこへの出口? フーコーは、ここに、ぼくたちのあいだにある他なる場所を名指すためにヘテロトピアという言葉を使った。ユートピアではなく、別の生への逃げ道としての場所。横へ向かう思考。数分しか続かないかもしれない生。アンビエントは、サウンドトラックというより、ぼくの最近のヘテロトピアへと通じる通路なのだ。

アンビエントが山に似ているのは、それが、非人称的なものの感覚が求められる、あるいは見出される場所への通路だからだ。消失、脱中心化、裂け目。だからこそ、アンビエントには宇宙的なもの、動物的なもの、昆虫的なもの、鉱物的なもの、有機的なもの、機械的なものがある。それは個人の上にも下にもある。内臓のように、電線のように、クマムシのように。作品に声や歌が乏しいのもそのためだ。アンビエントは消えるのにうってつけの音楽、介入を最小限へと押しやる音楽だ。意志や中心性や主役であること(言い換えれば英雄性)に価値の錨を下ろす立場から見れば、これはぞっとする話に聞こえるかもしれない。でも、身を委ねる構え、弛緩、受容に価値を置くなら、ここには無ではなく何かがある。

VIII

このエッセイの言葉で言えば、消えるとは環境とエージェンシーの変化を引き起こすことだ。それは誘導の訓練だ。休暇に出かけるより、LSDをキメるほうに近い。環境をつくり直し、周囲との、そして自分自身との関係を組み替え、異なる情動や感受性に身をさらし、もしかしたら一度も起動されたことのない知や記憶を呼び出し、可能なものの空間を開き、予期せぬものの空間を開くこと。

消えるとは、可能なものの幅に変化を引き起こすことだ。跳躍であり、移行である。「可能性」が広告のスローガンとなり、投機的でセキュリティ至上主義的な支配様式のベクトルとなっている今日、身を引くことは、この雑誌の編集者仲間たちが「認知戦争」と呼ぶもののなかで武器になりうる。その戦争は、少なくとも部分的には、可能性と出現をめぐる言説でできているのだから。

消えることにおいては、ラース・フォン・トリアーの『ファイブ・オブストラクション』のように、使える手段の幅が狭まる。もはや使えない手段、禁じられた手段がある。自らに課した禁止だ。だが乏しい環境にも発明はある。以前は見えなかった場所に可能性を見出す可能性があるからだ。アンビエントのように。そこではしばしば、ごくわずかな変化や反復される音こそが、単調でありながら豊かな風景をつくりあげていく。

消えたいという欲望は、アンビエントのこの特徴と共鳴しているように思える。貧しくなるために身を引くのではなく、引き算そのものから豊かになるために身を引くこと。フランソワ・ジュリアンが古代中国の音楽について語っていることに少し近い。そこでは沈黙が、ありうるすべての音として捉えられていたという。

IX

ここ最近、私が「消えようとする意志」とでも呼びたいものをあらわにする文学作品、美術作品、映画に立て続けに出会っている。そうした作品は、何かを手に入れるために――時間の感じ方、未来の描き方、計算の仕方、交換の仕方、存在の仕方を手に入れるために――形や習慣、関係、地平を失いたいという、いまの欲望を語っているのだと思う。

逃走はいつだって約束の一形態だった。ネガとしての楽園、何ひとつわからない楽園。わかっているのは、それがここではないということだけ。「全部たたんで、クソみたいなここからおさらばだ」と、2001年には貼り紙が言っていた。今ならこう言うかもしれない。「クソをたたんで、全部からおさらばだ」。フアン・ホセ・ベセラの『真実のすべて』の主人公なら、そう言ったかもしれない。ある日オフィスを出て歩きはじめ、歩いて、歩いて、ついには街が背後に消え、別の世界が現れる男だ。あるいはフェルナンド・カッツの未刊の小説『言語と文明』。その主人公は、人生に痕跡を残した場所へと戻り、その痕跡を別の痕跡に、別の何かに作り変え、そこから溶解へ、存在論的な抱擁としての忘却へと向かっていく。平和とさえ呼べそうな何かへ。素朴で無神論的な転換が、彼を非人称へと導いていく。

消えたいという欲望は階級を横断している。特権があるのは、消えることのできる時間と場所のほうだ。だからこそ、消えられないということにも階級の刻印がある。そしてそれは、現代の苦しみや痛みの決定的な源になっている。去りたいのに去れないことほどつらいものはそうない。犠牲という意味づけはまさにそこから生まれる。その不調に別の意味を与えるために。そしてそこでは、絶望や虚脱感、無力感もまた膨らんでいく。

消えたいという欲望は階級を横断している。特権があるのは、消えることのできる時間と場所のほうだ。だからこそ、消えられないということにも階級の刻印がある。

閉じ込められていると感じる状況にいると、息苦しさが芽生える。ビフォ・ベラルディによれば、息ができないこと、それこそが私たちの置かれた資本主義の条件における支配的な感覚だという。超高圧をかけ、万人の競争へと駆り立て、貧しい者や人種化された者を窒息させて殺し、その一方で何トンもの二酸化炭素を大気に吐き出して空気を薄くし、呼吸を困難にする資本主義。何百万もの人間が、浅い息をしている。

X

『トレンケ・ラウケン』は、ラウラ・シタレラが監督し、彼女とラウラ・パレデスが脚本を書いた驚くべき映画で、逃走と消失の欲望の物語を語っている。主人公のラウラは、まず大都市を捨てる。次に恋人を捨てる。ほどなくして、映画のタイトルにもなっている小さな町を捨てる(ちなみにこのタイトルは地質学的な体も指している。トレンケ・ラウケンはマプドゥングン語で「丸い潟湖」を意味するのだ)。ほかの人間の前での彼女の存在感は、しだいに後退していく。彼女の存在を証言できる人は、どんどん少なくなっていく。ラウラは消えていく。存在の意味が変わり、その存在の証人たちが変わっていく。

ラウラは消える。だがそれは、ここではもうできないことをよその国でやるためにエセイサ空港を目指す、あの強迫的な移民(ルウコヴィチいわく)のようなやり方ではない。かつて持っていたものを探しに別の場所へ行くのでもなければ、他人の前で存在感を強めるためにどこかへ行くのでもない。死ぬのでもない。そうではなく、ラウラは野原のなかに溶けはじめるのだ。土や植物と見分けがつかなくなっていく。風景になっていく。環境になっていく。まさにアンビエントになっていく。言ってみれば、鉱物になろうとしているのだ。

山になるかのように。劉慈欣が語る山のように知覚できるかのように。「山の目から見て、人間の世界とは何だったのか? たぶん、ある暇な午後に眺めたものにすぎない。まず、小さな生き物たちが平原に現れた。しばらくすると彼らは増え、さらにしばらくすると蟻塚のような構造物を建て、それはたちまち一帯を覆った。構造物は内側から光り、いくつかは煙を吐いた。さらにしばらくすると、光も煙も消え、小さな生き物たちはいなくなり、構造物は崩れて砂に覆われた。それで終わりだった」。消えること。それは山になる技法だ。

XI

ガブリエル・タルドは20世紀初頭のフランスの社会学者で、人間を定義づける、発明する能力と反復し模倣する能力との関係に関心を寄せていた。互いに矛盾する能力ではなく、互いを必要とする能力だ。

今年カクトゥス社から刊行された、タルドが1896年に書いた小説『未来史の断片』は、ふつうの社会学の仕事ではない。それはSF作品で、一連の宇宙的・気候的な現象によって地表が住めなくなり、そこで暮らせなくなった地球の人々が地下世界を発明するという話だ。その世界は私たちの世界とはまるで違う。より公正で、より協同的で、より連帯的な世界だ。太陽(ソル)から連帯(ソリダリダ)へ。それは、よりよくなるために、破局的な状況のなかで不可視の存在となり、地下に潜らなければならなかった民の物語である。そしてその過程で置き去りにされたのは、生物界の広大な領域だった。地底には植物も樹木も大型動物もいない。人間はその環境を失うが、すべてが失われたわけではない。その発明の才によって、人間は鉱物的なものの可能性と新しいやり方で結びつくことになる。生物学の観点からは少なく見えるその可能性は、実は多く、十分で、必要なだけあり、地上の生命の進化的な豊穣のなかで営まれていた社会よりも公正な社会を形づくるのに足りるものだとわかる。タルドは一つの問いを投げかけたままにしている。生態系の危機にある今日、その問いは響く。もし正義とは、失うことでもあるとしたら?

『断片』は一種の先取りされた脱成長主義のように聞こえる。そこでは発明の才が抑え込まれるのではなく(ジョン・ザーザン流のプリミティヴィズムではない)、新たな原理のもとで再構成され、方向づけ直される。きつい話に聞こえるが、この小説は、正義を生み出すにはときにまともな破局が必要だと言っているようだ。タンゴにこんな一節がある。「まずは苦しむことを知らねばならない、それから愛し、それから去り、そしてついには何も考えずに歩くこと」。この記事の考えに照らして読むと、どこか消えるための戦略のように聞こえる。

タルドは一つの問いを投げかけたままにしている。生態系の危機にある今日、その問いは響く。もし正義とは、失うことでもあるとしたら?

ほぼ一世紀にわたってベトナムを植民地支配した国の出身であるタルドの小説に、私はベトナム戦争の歴史を読み取れそうな気さえする。地上では爆弾があちこちに降り注ぎ、その一方でベトコンの地下坑道では、より公正な存在の原理が築かれていた。それは同時に、戦いの原理でもあった。たぶんそれこそが、坑道と塹壕の大きな違いなのだろう。塹壕は待機であり、待ち伏せだ。坑道は生産だ。塹壕は現れることの一時停止であり、坑道は消えることと現れることの新しい関係なのだ。

XII

ある情勢を単一の意味や力に還元してもあまり意味はない(だから私は「時代」とは言わない)。それでも、今日、消えたいという欲望が存在するとは言えるだろう。誤解しないでほしいのだが、これは政治や関与や他者への気づかいを放棄するという話ではない。この欲望は別の次元のものだ。それはほとんど戦略であり、政治や関与や他者への気づかいがありうるように、あるいはふたたびありうるようにするためのものだ。すでに存在する断絶を公然と認めることだ。望んでいるつながりの難しさを認めることだ。原因ではなく、結果なのだ。

それはほとんど戦略であり、政治や関与や他者への気づかいがありうるように、あるいはふたたびありうるようにするためのものだ。すでに存在する断絶を公然と認めることだ。

もしかすると、これがあの凄まじい小説『ピチシエゴス』のありうる読み方の一つなのかもしれない。正当な戦争、だが不当な動機による戦争のなかで、ピチシエゴスたちは死にたくない。だから脱走する。彼らは戦争の縁で生活を築く。アンチヒーローだが、同時にもてなし上手で、善意にあふれ、寛容でもある。ベトナムの兵士たちのように、彼らは地下に隠れ家をつくる。実際、デ・ラ・フロール社から出た初版のタイトルは『ピチ=シエゴス 地下の戦いの幻影』だった。ベトナム人とは違って、彼らは暴力的な手段で敵を打ち負かそうとは思っていない。自分たちにそれができないとわかっているのだ。彼らは、死ぬことと勝つことを取り違えるヒーローたちより賢い。超越の罠だ。ピチシエゴスたちは平和主義者ではない。戦争を終わらせるために何かをするわけではない。むしろ平和的なのだ。戦争が終わるのを待ち、戦争に寄生し、その傍らで生きている。不穏なのは、戦士のエートスにとっては耐えがたいその姿のもとで、彼らの存在が、逆説的にも戦争の終わりに関与しているということだ。彼らの脱走、離脱、消失は、彼らがそこにいたなら生まれなかったはずの違いを生み出している。

XIII

2000年代初頭には、ラファエル・ピネドの『プロップ』や、ペドロ・マイラルの歴史改変小説『砂漠の戦争』のような、消えゆく社会の物語を語る小説が出た。『プロップ』の場合、終わらない雨が生命の可能性を蝕んでいく。ちょうど『未来史の断片』でタルドの太陽嵐がその可能性を蝕んでいたように。そして世界は、無意味というよりは残酷な部族的生活のなかに閉じ込められる。マイラルでは、タルドとは違って、別の次元への逃走はなく、次元そのものの解体、崩壊がある。だがどちらにおいても、個人は持ちこたえる。それほどまでに、登場人物のプロップも、『砂漠の戦争』の主人公マリアも、物語の最初から最後までを生き抜く。もう一つのいい例は、サルバドール・ベネスドラの『翻訳者』だろう。移行に見えたかもしれないものが、結局は殲滅、つまり絶対的な、あるいは決定的な移行の一形態になってしまう過程を描いている。

三つのどの作品でも、社会関係はばらばらになっていく。だがそれでも、個人が持ちこたえる世界のようなものが立ち上がる。まるで世界が、彼らから一貫性や関心や地平を奪えるほどには彼らに影響を及ぼせないかのように。凋落の物語である『76-89-03』でさえ、変わっていく背景に抗うしぶとさのようなものが感じられる。あるいは『ピサ、ビラ、ファソ』。あるいは『オクパス』。なにしろ2000年には、大衆である私たちまでが毎週火曜の夜、『ブルネラブレス』を観てテレビでセラピーを受けていたのだから。そして2002年、ポール・オースターの『最後の物たちの国で』を読んでいた自分を思い出す。

それに対して今、私が読み終えたばかりなのは、リタ・インディアナの『オミクンレの女中』、ペレイラ・エスタバニの『バヤシ』、チャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』、マリア・クリストフの『わたしを外に含めて』、そしてオクテイヴィア・バトラーの《ゼノジェネシス》三部作だ。気づくのは、これらの本がどれも、ばらばらになっていく世界ではなく、変異していく個のあり方、境界の危機、時間の炸裂を語っているということだ(『砂漠の戦争』の逆向きの線形性とはなんと違うことか)。幻想的なものと奇妙なもののあいだで、現実は理解しきれず、いつももう一枚の層を持っている。予測不可能な層、独自の論理を持つ層を。その意味で、それでもなお、可能世界という概念は、どんな文学的形式をとろうと、結局のところ一つの世界なのだ。だがその世界は、そこに住む者たちに深い変容を要求し、強いる。消えることは、その変容の一つの瞬間なのだ。

革命とは、ある社会的立場(労働者階級)が一連の行動を推し進め、それによって存在の条件を変えることで、最終的にはその立場そのものを消滅させる(労働と搾取を廃絶することで)プロセスだとするなら、消えることもまた、ある社会的立場が自らを消し去るための戦略であるように思える。

XIV

2026年6月5日、インディオ・ソラリが死んだ。私は一日中泣いた。川のようにというより、海のように——波となって、寄せては返すように。日が経つにつれて、私は思いもよらない結論にたどり着いた。それはあの死とこの文章とをつなぐものだった。ソラリとともに、ひとりの「消えること」の芸術家が死んだのだ。

ロス・レドンドスは(2013年にアグスティン・バジェ、イグナシオ・ガゴとともに書いたように「大衆的な」)地下性の達人であり、身を潜めて機をうかがう存在だった(「眠っているのか、それとも眠ったふりをしているのか」)。だが同時に、親密さを崇める者たちでもあった。親密さとはつねに、現れないこと、あるいは視線を制限することだ。つまり、露出をめぐるひとつの政治学である。

消えること。それは形を失う訓練であり、他人にとっても自分自身にとっても、少しばかり居場所をつかめない、少しばかり予測のつかない存在になる訓練なのだ。

インディオでさえ、最後の最後まで自らの存在を小出しにする人であり、(単なる「コミュニケーション」ではなく)伝達の戦略家だった。ホログラムによって最後まで引き延ばされたあの現れては消える運動——同時にそこにいて、いないという、最後のあり方——にこそ、彼の驚くべき浸透力の大部分が宿っている。

彼の芸術はまた、自分自身にとっても他者にとっても、ひとつの終わりを与えるすべを心得ていたことにもあった。私はそれをエレガントな終わりと呼びたい。彼は自分が去らねばならないことを、時間をかけて告げていった。他者を、つまり私たちを、彼の不在という場面に向けて少しずつ慣らしていった。その身振りは、何十年にもわたって消えることを実践するなかで彫琢されたものだ。その往還は、私たちを他者から引き離すだけでなく、現れているあいだには探ることのできないものを探らせてくれる。消えること。それは形を失う訓練であり、他人にとっても自分自身にとっても、少しばかり居場所をつかめない、少しばかり予測のつかない存在になる訓練なのだ。結局のところ、呼吸するための条件のひとつは、ほんの一瞬、息を失うことなのだから。

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